2008年02月26日
本願寺の東西分派の経緯
なんだか本当に神秘的なお話ですね。
もっと本願寺のことをしりたくなりました。
本願寺教団の東西分派は、戦国時代の最末期、大坂の石山本願寺を本拠地として戦われた一向一揆(石山合戦)(1570年?1580年)終結時の教団内部における見解の相違に遠因を持つ。
石山合戦末期の本願寺教団内には、当時対立していた織田信長との講和を支持する意見と、徹底抗戦を主張する意見とがあった。当時の本願寺門主であった11代顕如は、全面講和を支持する勢力と行動を共にし石山本願寺を退去したが、顕如の長男教如は、徹底抗戦派と共に一時石山に留まり、退去後も抗戦派への支持を募った。この教団の分裂的状況は、1591年、本願寺が豊臣秀吉から寺地(七条堀川)を与えられて京都に戻った後も継続していた。これに着目した徳川家康は、1602年、本願寺のすぐ東(六条烏丸)の土地を教如に与え、最大の宗教勢力であった本願寺の勢力分散をはかった(自身も三河時代に一向一揆に苦しめられた経験を持っており、本願寺教団の力を大きな脅威と感じていた)。これにより本願寺は、顕如の三男准如を12世門主とする西本願寺(現在の浄土真宗本願寺派)と、長男教如を12世門主とする東本願寺
現在、本願寺派(西本願寺)の末寺・門徒が中国地方に特に多い(いわゆる「安芸門徒」など)のに対し、大谷派(東本願寺)のそれが、別院・教区の設置状況に見られるように北陸地方・東海地方に特に多い(いわゆる「加賀門徒」「尾張門徒」「三河門徒」など)のも、上述の歴史的経緯の反映といわれる。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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